はじめまして!山本まなみと申します。
私は、大阪市でフラワーショップの実店舗グリュックを経営しながら、お花で起業したい方に向けて、お花とビジネス両方の知識とスキルが学べるオンライン講座を開催しています。
今思えばあっという間の20年でしたが、ここまで来るには長い道のりがありました。
このプロフィールでは、なぜこのお仕事を始めたのか、起業から現在に至る道のりをご紹介したいと思います。
お花で起業したい方の参考になり、一歩踏み出すきっかけになれば幸いです。
Contents
誕生から小学校まで、自由な働き方を目指して
私は大阪市で長女として誕生しました。
現在も大阪市に住んでいるので、市内を母と車で走っている時に、
「ここがあなたが生まれた病院だよ」と教えてもらいました。
今も、川の橋のふもとにその病院はあります。
長女としてしっかりしないいけないと、と思う反面、ちょっと抜けている子どもでした。
長女の特徴として一般的にいわれているのが、
・面倒見が良い
・完璧主義
・我慢強い
・プライドが高く頑固
・甘え下手
ということです。
私も少しは当てはまっているかもしれませんね。
両親が共働きだったこともあり、小さいころからに絵本を読んで遊んでいました。
先生のいうことをよく聞いていた私は、比較的成績がよかったようです。
そのため「将来自由に職業を選べるように」という両親の考えから、私立の進学校に入学するために塾へ通うことになりました。
小学校の私はもちろん右も左もわからないまま受験勉強をするのですが、今思うとこの進学は後々非常に人生に影響を及ぼしているので、小さい頃の親の教育方針というものは子どもにとって大切だと思います。
現在保育園の子どもがいるのですが、自分のことに精一杯で子どもの将来のことを考えてあげられているのなか、と自分自身を見直すきっかけとなりますね。
中学校・高校・大学、未来を作るためにやったこと
無事に中学受験に受かった私は、大阪市内の家から1時間半以上かかる中学校へ通うことになりました。
この学校は、中学校・高校の6年一貫校で、特徴的なのは医学部を目指すご家庭が多かったんです。
そのため、入学と同時に受験勉強が始まるかのような、毎日テストの嵐でした。
(今その学校方針は変更になっているかもしれませんが、当時は、)毎朝20分間のテストがありました。
国語・数学・理科・社会・英語を、月火水木金の朝にそれぞれ一科科目づつ実施していきます。
週末には5科目の合計が出るので、毎週クラスの順位が確定します。
そして、この毎朝の20分テストが、1年間の成績表に直結します。
今この文章を書いて当時を思い出すだけで、大変で辛い・・・涙
毎週発表される順位はかなりプレッシャーで、根を上げる生徒も多かったです。
しかし、毎日の積み重ねが1年後、6年後、10年後の未来を作るということを身をもって知りました。
中学・高校の6年間は、かなり抑圧された状態での受験勉強であり、
さらに、家を引っ越して通学が片道2時間かかっていたこともあり、
自分の時間がほとんどなく、のびのびとした学生生活とは無縁でした。
将来は学校の先生になるといいよ、という親のアドバイスが頭の片隅に残っていたため、私は教育学部を受験しました。
毎日の積み重ねの甲斐があって無事に大学受験に合格した私は、抑圧された6年間の反動からか、自由な大学生活を送りたいと思うようになったのです。
大学時代・お花との出会い、超氷河期の中で本当にやりたいこと
無事に受験に合格しましたが、実は、どこの大学に行って何をしたいか、という想いや将来の展望は全くありませんでした。
自分で何もわからないまま中学受験をして、進学校だったので大学受験をしたので、自分で将来を考えないままここまで来てしまったからです。
人生の設計図を自分で描くことなく18才まで来てしまったことや、ストレスが多い学生生活を送っていた反動で、大学では自由な生活を求めるようになりました。
選んだ大学も早稲田大学だったために、自由な校風で多彩な学生が集まっていましたね。
教育学部で心理学を学んでいた私でしたが、学生時代は、美術・文学・演劇・建築・ファッション・デザインなどに触れ、東京の街を散策するのを楽しみました。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、進路を考えるときがやってきました。
しかし、相変わらず設計図を描いていなかった私は、今度は就職活動に苦戦したのです。
ちょうどリーマンショックで超氷河期と呼ばれたピークの2000年に当たってしまいました。
私は100社ほどエントリーをしましたが、面接に行けたのは10社程度で、何とか内定を1社頂くことが出来ました。
就職したらまた自由な時間がなくなるかもしれない・・・そう思った私は、内定を頂いた後の残りの学生生活で、好きなアルバイトをしよう、そう思い立ました。
それが、お花屋さんでのアルバイトでした。
一番初めに働かせていただいたのは、新宿や池袋など、ターミナル駅に展開するフラワーショップ。
池袋駅構内にあるので、お花に必要な水を大量に汲めるところが当時はありませんでした。
そのために、ポリタンクに地上で水を入れて、地下の駅構内に持ってくるという作業を繰り返し行う必要があったんです。
20キロくらいの重たいタンクを、近道のために階段を使って何往復もするとうのは本当に大変でしたね。
また、お花屋さんといっても優雅な時間はなく、何も知らない私に、男性社員さんは厳しく女性スタッフはあきれ顔で、どうしてこんなことも出来ないんだろうと悔しく思うことが多かったです。
さらに駅構内の花屋さんは、急いで持ち帰りたいお客様がほとんどなので、もたもたしている時間はありません。
手先が不器用で、テキパキと動けないと仕事になりませんよね。
初めのアルバイトで、おかげでお花屋さんの身のこなし方・動き方について学ぶことが出来ました。
就職から専門学校へ、お花の世界へ飛び込む決意
辛くても楽しいお花のアルバイトも終わに近づきました。
4月から私は、印刷会社へ就職することが決まっていたからです。
本を読んだり雑誌を見たりすることも好きだったので、印刷物を制作することに携われるのはきっと楽しいに違いない、そう思い面接した会社から内定を頂き、超氷河期のなか何とか入社することが出来ました。
1年目は営業部に配属になりました。直属の上司は50代の男性で、どちらかというと、寡黙な印象でした。
もしかしたら私が新卒女性だったので、指導する気持ちが起こらなかったのかもしれません。
私はやる気に満ち溢れていたのですが、仕事を何も与えられなかったために不満が溜まりました。
会社の仕組みも業界のことも勉強不足の当時の私には、自分で考え仕事をすることは出来ませんでした。
2年目は生産管理部に配属になりました。
直属の上司は社内でも活躍する40~50代の女性課長でした。
どうすれば効率よく現場が回るか社内の調整を担うお仕事です。
部署間のコミュニケーションを取り持つ、目に見えにくいけれど大切なお仕事でした。
しかし、会社に所属して2年働く間に、私は花屋の仕事が恋しくなりました。
自分の手で一から作り、完成させお客様の手元に渡るまですべてに関わることが出来る花屋の仕事の方がやりがいを感じることが出来たからです。
2年間で溜まった100万円ほどで私は、本格的にお花の勉強をするために、お花の専門学校に入学することに決めました。
こうして私は、学生時代から慣れ親しんでいた場所、高田馬場にあった、日本フラワーデザイン専門学校に通うことになりました。
やりたいと思ったことを、自分で選んだ初めての場所だったと感じます。
専門学校の造形科というクラスで1年間、フラワーデザインの基礎を学ぶことが出来ました。
ドイツヨーロピアンフラワーデザイン、いけばな、色彩学、植物学、デッサン、植物の歴史など、多彩な講師の方に学びました。
特に、フラワーデザインは、ドイツのマイスターの女性が来日して通訳を交えながら直接レッスンを受けることが出来たので、とても貴重な経験でした。
周りはみんな高校卒業したばかり18歳の若い女性でしたが、その中に混じって26歳の私は生き生きしていたと思います。(笑)
卒業制作では、クラスメイトみんなで大きな舞台装飾をし、自分たちも舞台上でお花を生けるパフォーマンスをする、という体験をすることが出来ました。
楽しい学びを終えた私は、お花の世界へ飛び込むことになります。
しかし、現実は上手くはいかないものです。
花屋就職、人生で最大の失敗と感じたこと
学校を卒業した私は、東京青山にある有名なお花屋さんで働くことが決まりました。
とても楽しかった学生生活に比べ、やはり現実は厳しいものですね(*_*)
まさに始発から終電まで働く、という過酷な労働環境。
現場のことが全く分からないので右往左往して先輩に怒られ、大量のごみやダンボールを片付けるだけで精いっぱい、あっという間に一日が終わります。
社長は業界でもとても有名な方でいらっしゃったので、素敵な花や貴重な植物・最先端のデザインをまじかに見ることが出来ました。
芸能界などから有名人も顧客だったり、青山という場所柄もあって、自分が生きている場所とは全く違うように感じる華やかな世界でしたね。
そんな中お仕事のスケールやスピードについていくことが出来ない私は、日々疲れだけが溜まっていきました。
家に帰って少し寝たらすぐ起きてまた職場に行き、激しい交通量の東京で、慣れない車の運転にビビりながら、大量のごみと段ボールを片付ける毎日が3か月続きました。
そんな時、私は花屋人生最大の失敗をしてしまったのです!
それは、赤坂の高級クラブへお花を生け込みに行った時のことでした。
先輩のアシスタントとして同行した私は、作業のためのブルーシートを抱えていました。
先輩からは、
「こちらの高級クラブの装飾品は本当に高価で、美術品や1点ものばかりだから気を付けてね」
と口を酸っぱくして言われていました。
しかし、駄目だといわれたらそこに意識がフォーカスしてしまうものなのか、私が本当に駄目なのか・・・
開店前照明の消えている真っ暗な店内の構造を把握していなかった私は、玄関にフットランプがあることを知らず、手に持っていたブルーシートのすそで、そのランプを倒してしまったのです!!!
そのランプが倒れる瞬間を私はスローモーションのように見ました。
まるで、ドラマでピストルに撃たれる瞬間、人がスローモーションで倒れるかのような感じでした(泣笑)。
先輩が教えてくれたように、その足元のランプは60万円ほどする高級なもので、職人が手作業で作った一点ものということでした。
私はその時、「どうしよう、もうクビだ・・・」とつぶやいたのですが、先輩に一喝されたんです。
「そんな自分のことばかり考えてる場合じゃない。まずは私たちはこの花を生けないといけない」
私は正直、恐怖に震えていたのですが、先輩は本当にすごいなと、働くとはこういうことなのだな、と改めて思ったのでした。
この件が最終的にどうなったかというと、まずはその後、先輩と二人で事務所に謝罪に行きました。
赤坂の高級クラブの事務所には、怖そうな(すみません・・・すべて私のせいなのですが・・・)10名ほどの方がずらりと並んでいて、
私は土下座をして平謝りをしました。
そして、男性から「誠意を見せろ」といわれました。
粉々に割れたガラスの破片をお店に持ち帰って、ボンドを買って一つ一つ貼り付け合わせました。
当然粉々のランプは戻ることなく、徹夜して修理したランプをもう一度持参してまた謝罪しました。
私はその一件で、その花屋で働き続ける気力がなくなり、辞めることにしました。
本当は働き続けてお店のお役に立たないといけない、そう思ってはいたのですが、私は一刻も早く消えてしまいたい気持ちでした。
迷惑をかけてしまったこと、それをきちんと挽回できなかったこと、すべてが中途半端だったのですが、ショックが大きすぎて、思考も行動もストップしてしまいました。
不動産会社を経てドイツへ花留学、自分の外側へ向かって
あこがれだったお花屋さんで働けたのに、自分の失敗で働けなくなったことは、本当に今思い出しても心臓がぎゅっとなる出来事です。
私はその後私は、別のお花屋さんで働くことが出来ました。
中野区にある花屋は、青山のお店よりも親しみやすさがあり、近所の方が自宅に購入するお花の苗ものなども販売していました。
朝から晩までごみや段ボールを片付けていた時と比べ仕事の量は少なく、仕事内容も私には慣れたことが多かったのでリラックスして働けました。
ところが、このお花屋さんはある会社が経営している花部門という位置づけだったので、その会社の経営状況の影響により人員削減されることになってしまいました。
入社したての私は一番初めにリストラされることになってしまったのです。
こうして私は、またお花屋さんを辞めることになりました。
その時、私は強く思ったんです。
「心地よく働けるようになりたい、精神的・経済的に安定した働き方をしたい」
素敵なお花を作れるようになっても、朝から晩まで働いて心が疲れるのも嫌だ。
仕事内容にはときめかず、時間の余裕があっても、お金を頂けないのも嫌だ。
そしてふと、私は楽しかったお花の専門学校時代を思い出しました。
あの時ドキドキし楽しみながらお花を生けていたなあ、と。
私は専門学校で知ったドイツの花事情についてもっと知りたいと思い、ドイツへ花留学することを決心しました。
つらい思い出が出来た日本から少し逃げたかったのかもしれません。
日常的にお花を飾る習慣があるドイツでは、フローリストはどんな働き方をしているのか知りたくなったのです。
このころから私は、お花の仕事内容についてと同じくらい、どのように人が働くのかに興味を持つようになりました。
しかし、簡単に花留学できるというわけではありません。
まずは、専門学校の学費で貯金を使ってしまったために、お金を稼ぐ必要がありました。
また、ドイツでお花の仕事をするためのビザも必要になってきます。
まずは私は必要なお金を手に入れるために、契約社員として派遣会社に登録をしました。
たまたま派遣された先は、新宿区にある賃貸の不動産会社でしたが、様々な物件を内見できるのは毎日とても楽しかったです。
半年間賃貸物件をご紹介したその後、もう半年間は麻布で分譲や売買をする会社で事務として働きました。
芸能人が住むタワーマンションから、風呂なし4畳半の賃貸物件まで、たくさん知ることが出来ました。
事務ではパソコン作業を教えて頂けたので、今のスキルにもつながっています。
次に、ビザの問題がありました。
私は現地で花屋の仕事をしたかったので、ワーキングホリデーでは日数に限度があります。
そこで、交換留学をあっせんしている「日本カールデュイスベルク協会」にお世話になることにしました。
こちらの協会は、日本とドイツの職業の交流を促す機関で、特にドイツのマイスター制度で技術を習得したい日本人にはありがたい協会でした。
人気なのは、パン、靴、製菓、家具、そしてフローリストといった分野でした。
過去にフローリストとして働いた方が何名かいらっしゃるので私も志願したのですが、
実際に実施されるかどうかはその年によって変更する、ということでした。
そして、残念ながら私が行きたいと思った年には、フローリストの募集がなかったのです。
せっかく1年間お金を貯めて頑張ったのに、これで海外に行けないのは残念だ、
そう思った私は、働くお店は現地で自分で見つけようと決意しました。
カールデュイスベルク協会には、自分でベルリンでお花屋さんの職場を見つけるから、その間を取り持って欲しいと相談しました。
今考えると、とても大きな決断だったと思います。
ちょうど2006年あたりからベルリンの景気は悪くなっており、海外労働者のビザ発給が難しくなっていたからです。
しかし、何とか私は「研修生として働いてもいいよ」と受け入れてくれるお花屋さんを自力で見つけることが出来て、
研修ビザを発給することが出来たのでした。
東ベルリンのフローリスト、外側から内側を眺めて感じたこと
こちらの写真は、ベルリンで3か月間通った語学学校の先生とそのお友達との写真です。
ドイツで知り合いが一人もいなくて内気だった私を、語学学校の先はにとても心配してお友達の輪にいれて下さいました。
知らない人たちと車で、ベルリンからスペインの南の方まで旅した時の写真です。
ちょうどお正月だったので、花火を手に持ってカウントダウンをしました。
海外ではお正月は花火を打ち上げて派手に祝うものなんですね。
ベルリンの語学学校で3か月間学びながら、ベルリン中のお花屋さんを見て回りました。
そして素敵なお花屋さんを発見して研修生として雇ってもらえないか面接をお願いしました。
その結果、幸運にも東ベルリン地区にあるおしゃれなお花屋さんで働くことが出来ました。
そのお花屋さんは女性2名の共同経営でした。
二人は有名なフローリストで一緒に働いた同僚で、ベルリンでお店をしたいと思った女性がもう一人を誘って始まりました。
お店を開業して2~3年ほど経ち、ちょうど人を雇おうというタイミングだったのですぐ採用が決まりました。
ひとりのオーナーは、なんと私よりも若い独身女性でした。(私は当時29歳でしたが、多分彼女は25才くらい?)
彼女はセンスあふれる芸術家で、自分でお店を持って、好きなお花を作りたいと思ったようです。
もう一人のオーナーは、わたしよりも年上の3児の母でした。(多分40代)
彼女はいつも冷静でおおらかで、私のことをとても気遣ってくれました。
磁石のNとSのように、性格も見た目も正反対の二人だからうまくいっているように私には見えました。
しかし、会社経営というのは難しいものです。
いつしか二人の女性は同じ方向を見ることが出来なくなり、なんと私が研修している間に、仲たがいをしてしまったんです。
若い女性は経営方針の違いからこの花屋をやめる、というのです。
私は彼女の才能あふれる仕事ぶりが大好きでしたが、親切でおおらかなもう一人の女性のことも大好きでした。
若い女性経営者がいなくなった後も私は、そのお店で働き続けることになりました。
お店に一番必要な人がいなくなったのに、私がそこで働いていることがとても不思議でした。
いなくなった彼女の代わりを一生懸命しようと、残された女性のお手伝いを懸命にしました。
しかし、看板商品を作っていた彼女がいなくなったために、今までのお客様はだんだんと遠のいていきました。
これからは、残った女性経営者が、新しいお客様を作っていかなければならなかったのです。
西ベルリンのフローリスト、本当に大切なものは外側ではなく内側にある
若い経営者がいなくなったあとしばらくはお店をお手伝いしたのですが、研修ビザが切れる時期になりました。
そんな時ベルリンの花市場で、私はあるフローリストとお知り合いになることが出来ました。
その方は日本人ではありますが、ドイツ国籍を取得してベルリンでお花屋さんを経営されていました。
私があこがれるようなフローリスト人生を送っている方がいて私はとても励まされました。
そして「お店を手伝ってくれないか?」と誘って下さったのです。
ちょうどビザが切れることをお話しすると、その件も役所に交渉して労働ビザがおりるように手伝って下さる、というのです。
私にとっては渡りに船!ベルリンでフローリストのお仕事も続けられるしビザも何とかなりそう!
そう思い私はその方のお店を手伝うことになりました。
ひとりで道を開かれたそのオーナーからは、
・日本人独自の強みを生かしたお花の作成
・ひとりでビジネスを経営していくための心構え
・ネットワーク・フットワークの大切さ
を学ぶことが出来ました。
とくに、海外に出て初めて、【いけばな】の偉大さに触れることになりました。
IKEBANA ARTはベルリンでも人気で、禅の思想と並んで、偉大な東洋哲学として取り入れられていました。
その方は、ドイツで生活したい、そのために日本人でもビザがおり経済的に自立できる自営業は何かを模索したところ花屋になった、とおっしゃっていました。
そのように理論的に考え、それを実現するために行動し、やり遂げる精神力が素晴らしいなと心から尊敬します。
そこにはドイツで生活したいという、強い動機があると思うのですが、何事においてもそれは大切だと感じました。
そうこうしているうちに、ベルリンの景気はどんどん悪化していきました。
私も何度も役所に書類を提出したのですが、時間ばかりが過ぎて、なかなかビザがおりませんでした。
日本人である私が、ベルリンに住む人の働くポストを一つ奪ってしまう、ということにつながるからです。
そして時がたつにつれてそのオーナーから厳しい意見も頂きました。
「結局あなたはどこで何をしたいのか?」
「ベルリンで本気で働きたいのか?」
「あなたの年齢なら、研修などではなく、フローリストとして活躍するべきなのではないか?」
私はその本質的な質問に全く答えることが出来ず、自暴自棄になってしまいました。
ビザもうまく取得できず、異国の地で働くことに疲れた私は、2年ぶりに帰国する決意をしたのです。
生まれた場所、大阪でお店を持つために私がやったこと
東京の賃貸物件を引き払ってすべての持ち物を処分し、スーツケース一つでドイツに行ったために、私が帰る場所はありませんでした。
そこで10年ぶりくらいに大阪の実家にお願いして、居候させてもらえることになりました。
結局家族がいるところに戻った私は、この場所で自分のお花屋さんを持つ決心をしました。
まずは、大阪での土地勘を養おうと思いました。
高校生まで大阪にいたのですが、お話した通り毎日受験勉強しかやっていなかったので、詳しい街の様子が全く分からなかったのです。
お花屋さんを開くためには、どの場所でどのようなものを作ればいいか知る必要があると感じたんです。
そこで、大阪イチ繁華街梅田のフラワーショップでアルバイトすることにしました。
たくさんの人が行きかう駅直結のお花屋さんでは、以前東京の池袋や新宿で働いたことを思い出しました。
そこで働き梅田周辺を探索しながら、フラワー技術を磨けて自分のお店づくりの参考になるお花屋さんを探していました。
ふとショーウィンドーの装飾が素敵なお花屋さんを見つけ、私は履歴書を持って面接をお願いしたんです。
ちょうどその会社が新店舗を作るということでスタッフを募集していた時期と重なり、私は運よく採用して頂くことが出来ました。
その会社で3年後、私は2店舗の店長を任されお店運営の仕方も色々勉強することが出来ました。
・注文と仕入れ
・商品開発
・店舗ディスプレイ
・社外とのコラボ企画
・スタッフとのあれこれ
・そして、売り上げについて
自分の経営するお店ではありませんでしたが、自分のお店のように一生懸命考え行動しました。
お店の役に立つことについても自分なりに考えた結果、私は自分の分をわきまえず、いろいろと会社に対して意見したと思います。
そして、イエスマンになれなかった私は、せっかく店長まで任されたお花屋さんをまたも辞める決心をしました。
今度こそは自分のお店を持とう、そう思ったからです。
葬儀のお花を生けながら、物件を発見
私は大阪で物件を探し始めました。
しかし、かつて不動産会社で働いていた経験から、素晴らしい物件はそう簡単には見つからないことも知っていました。
いいなと思う物件は、市場に出回ることなくすでに次の契約者が決まっています。
当時私は、一日に5~6件の不動産会社を訪れ話を聞いていました。
毎日どこかに足を運んで条件にあう店舗がないか聞いて回ったんです。
でも、空き店舗の情報は大体の不動産会社で共有されていて、紹介される物件はどこの不動産会社に行っても大体同じなんですよね。
あまりにもしつこい私は、「あんたさっきも別の不動産会社に行ってたでしょ?あれと同じ物件しかないよ!」
といわれてしまいました。
しつこい女がまた来たよと、もしかしたら不動産会社の間で噂になっていたかもしれません(笑)。
これは長期戦になるかもしれない、そう感じた私は、自分のお店を持つ前に最後のアルバイトをしようと思いました。
今までは、ブライダルやお祝いなどハレの日のお花をお届けすることが多かったのですが、自分でお店をやるとなったら、きっとそれ以外の経験も必要になるだろうと思い、葬儀のお花専門の会社でお花を勉強することにしました。
いわゆる、花祭壇、と呼ばれるお花の装飾をご存知でしょうか?
遺影やご遺体の周りを現代的にお花でデザインして祭壇に仕上げるというものです。
葬儀の会館で行うこともありますし、時にはお客様のご自宅で何もないところから作り上げることもあります。
広い空間に土台を作り花を生け空間を作り上げていくという、素晴らしくも大変なお仕事でした。
その会社や業界の独特な働き方に少し居心地悪さを感じていましたが、物件が見つかるまでは辞めないと決めて頑張りました。
そして粘って物件を探した甲斐がありました。
しつこい私の話を最後まで聞いてくれたある不動産会社の方が電話をくれたんです。
「出ましたよ!物件。ここで決めなきゃ、もう他にないよ。」
私は居ても立っても居られず、夜にもかかわらず物件を見に行く予約を取り付けました。
その物件はもともとはビルの駐車場でしたが、前の賃貸者が内装を手掛けて店舗形態に変えていました。
そして、今回空きが出た物件は、前回偶然にもお花屋さんだったのです。
つまり、私は居抜きでお花屋の物件を契約できるという幸運をつかみました。
そして私は清水の舞台から飛び降りる覚悟で、その物件を契約したのです。
お店が10周年を迎えた今、花起業サポートのオンライン講座が誕生
こうして無事に物件が見つかり、私は今もその物件でお花屋さんの経営を続けています。
ここまでの10年の道のりは大変でしたが、独立してからの10年ももちろん大変です。
自分のお店だから、自分で決めて行動していかないといけないからです。
私はお店を持ちたい、という夢を叶えるために遠回りをしましたが、振り返ってみると、【決断をする】ということが一番難しいと思います。
お店を始めてからは、たくさん勉強することがあり、現実に起こる様々な困難を乗り越えていかなければなりませんが。
しかし、そこに至るまでには、まずは自分の心の声を聞き、自分を知り、これをやるんだという決断をする必要があります。
実際、決断した後は、どんどんと道が開けていき、今では累計1万人200社にお花をお届けしているのです。
オリンピックメダリストにアレンジをお届けしたり、フェスティバルホールでストラディバリウス演奏会の舞台装飾をしたり、習近平首相来日で花束を作成したり出来るなんで、その時の私は全く想像していませんでした。
10年の店舗運営の期間で私がお店のスタッフを募集する時に感じたことがあります。
それは、
・好きなお花の仕事をしたいと思う方が多い
・独立したいと思っている人も多い
・そのために私のお店で修業したいと思う方もいる
ということです。
採用面接の時に様々な方のお話を聞いて、素敵なご経験を積まれているなと感じることがあります。
しかしわたし個人で経営しているお店のスタッフなので、そんなにたくさんの方を採用して雇うことは出来ません。
ですので面接をしながらいつしか私はその方々に、
「こうしたらいいかもしれないですね」
「ここでこんなことが学べるよ」
「あなたならこんなことが出来るかも」
と、かなりおせっかいながらもアドバイスをするようになりました。
かつて悩んでいた私のように、これからの働き方を悩んでいる方たちのお役に少しでも立てれば、そんな気持ちからでした。
0から10年間かかって決断して、独立して10年になった私だから出来ることはないか、そう思って【花起業オンライン講座】を立ち上げることに決めました。
起業する時にフラワーデザインの技術はもちろん大切なのですが、一人でお仕事を続けていくためにはそれだけでは難しいのです。
お花について、集客について、商品設計について、販売方法について、そして一番大切なマインドについて、自己満足でフラワーデザインを学ぶだけではなく、部分的に集客ノウハウをかじるのではなく、起業・独立して人生が豊かになるようなお手伝いが出来れば、そう思っています。
もしあなたが、
・お花のお仕事で起業したい
・好きな事をしながら経済的にも自立したい
・自分のペースで自由な働き方をしたい
そう思っていらっしゃるなら、お役に立てるかもしれません。
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